
めずらしくブログを書く気分になったので書いておく。
書いても、いつ更新になるかわからないが。
これは何度か書いている気がするが、やはりいろんな人がこのブログを
読んでくださっているというお話を聞くと、とてもうれしい一方で、
こんなこと書いてああ思われたらどうしやう、こう思われたらどうしやうと
考えてしまい、結局無難な文章に落ち着いてしまう。
これは文章に限ることではない。人と話していても、
こんなこと言ってああ思われたらどうしやう、こう思われたらどうしやうと
考えてしまうと、結局無難なことしか言えなくなる。
でもそれを極めたら、たぶん誰の記憶にも残らない、
つまらなく無難な人間になってしまうのだ。
人と違う行動をするということは必ず怖さを伴うが、
それによって自分の人生が豊かになる、と私は信じたい。
後悔もまた、時折私の周りをうろつき邪魔をする。
私はこれまでに結構いろいろな道にシフトしてきているので、
あの時道を変えずに同じ道を貫いていればどうなっていたのだろうか、と思う時もある。
そして今、気づけばまた新しい道に飛び込んでいて、
その道のスペシャリストがたくさんいる中でもがいていると、
自分の強みとか専門って何なんだろうなーと思うこともある。
それでも今、どうしてもこの新しい道に飛び込んでみたいと思ったのだ。
前々からその道があることは知っていたけれども、
私がこれまで歩んでいた道とはまた180°反対方向の道のように見えて、
自分が進み続けられる保証もなくて、なかなか進むことを躊躇していた。
それでも、その道の先にはいつもキラキラと光が放たれているように見えて、
そこにはとても深く、豊かな湖があるように見えたのだ。
私は遠くからそれを羨望の目で眺めるだけで終わらせたくなかった。
とりあえず、今はこの新しい道を信じる。
いつでも、自分の信じる道を粛々と歩み続けるのみだ。
ここまで、ずいぶん前に下書き保存していたっぽいのでとりあえず更新してみる。
実は途中まで勢いに任せて文章を書いて下書き保存しておいて、
後で見返すとなんかいまいちだなーと思い直し、結局更新しなかった記事が結構ある。
つい最近も学会で発表した時のことを記事に書いたのだけど、下書き保存のままにしている。
この現象は何なんでしょうね。黒歴史化現象とでも名付けようか。
ある時間の自分とまた別の時間の自分は同じ自分であるようでいて、
全く違う人間だということを思い知らされる。
ちなみに今日は本当は偽装の夫婦最終回について書こうと思っていた←
というわけでまた話はすっかり変わるが偽装の夫婦最終回について考察していきたい。
偽装の夫婦のあらすじは
Wikipedia参照。以下抜粋↓
「孤高の美女」「理想の女性」といわれながら、
実際には人との付き合いが大嫌いだという嘉門ヒロ(天海祐希)。
それが、25年前の大学時代に一度だけ愛したものの、理由を明かさずそのまま姿を消し、
逃げられた彼氏・陽村超治(沢村一樹)と再会するところから物語が始まる。
そしてその出会いをきっかけに「偽装結婚」生活を始めてしまう。
で、諸々すっ飛ばして最終回のネタバレを書くと、
ヒロも超治もお互いを想っているものの、
超治は実はゲイなので女の人を愛することができなくて、
一度はヒロを苦しめたくないと思い離婚し、
親友として付き合うことにしたものの、
どちらも相手のことを忘れることができず、
お互いの新しいパートナー(ヒロはしおりさん※、超治は保君)を捨て、
ヒロはゲイである超治のありのままを受け入れ、再婚するというのが結末。
※ヒロはレズではない
この結末は一部で
炎上してるとか物議を醸していますが、
この結末はハッピーでもバッドでもないが、自然な結末と私は解釈しています。
最終回の中で印象的なシーンが2つありました。
1つは、しおりさんの娘ゆうちゃんがヒロに
「ゆうのこと好き?どれくらい好き?」と聞くシーン。
しかもこのシーンは最終回の中で2回ある。
もう1つは、クライマックスの中で、ヒロのことが好きなものの、
ゲイのため身も心も愛すること「は」できず、
二人で夫婦としてやり直せるか戸惑う超治が
「俺たちどういう関係になるんだよ?」と問うのに対し、
「親友とか夫婦とか、そんな呼び方なんてどうでもいいじゃない。大切なのは絆でしょ」
とヒロが答えるシーン。
この2つのシーンで、ヒロはゆうちゃん、しおりさんのことをどう好きなのか、
超治はヒロのことをどう好きなのか、
一般化すれば、人の愛に種類はあるのか、
優劣はあるのか、という問題を提起しています。
そしてこの問いに対するドラマの中での答えは、
最後の最後にヒロと超治の会話で出てきます。
「相手を理解しようとし続けることが愛するということ」であり、
人と人との関係は種類や優劣がつけられるものではなく、
永遠の保証もないけれども、どうしようもなく惹かれあってしまうことが愛なのかもしれない。
ヒロと超治は互いの「個性」で衝突することがあるものの、そういう絆で結ばれていて、
互いの個性を受け入れることがつらいこととわかっていても一緒にいたくて、
離れることができなかったのだろうと私は解釈しています。
ここでいう「個性」の一つとしてドラマではゲイを扱ったけれども、
この「個性」は、超治のゲイに限らず、誰もがもっているもので、
他の人と衝突しうる要素だが、自分を構成する要素としてなくてはならない要素のことである、
ということもドラマでは言いたいように思いました。
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