何気なくSNSを見ていたら,近江屋洋菓子店が数日後に閉店することを知った.
近江屋洋菓子店,それは本郷三丁目駅から東大に向かう坂の途中にある洋菓子屋さんだ.
度々その店の前を通っては,そこはかとなく「わしは古くからこの本郷におるんじゃ」と言わんばかりのレトロな外観と,ガラスウインドウの先にあるケーキやらパンやらに心惹かれつつ,間食すると夕ご飯が食べられなくなると幼い頃から教わってきた私はその掟を破ることを無意識に恐れて,その場を後にするのであった.
しかし,このお店から放たれる妙な魅力に耐えかねて,実は3回お店に入ったことがある.お店に入ると,私は必ずレーズンビスキュイとショコラレーズンビスキュイを1つずつ買って,自分へのご褒美にしたものだった.
そんな近江屋洋菓子店が数日後に閉店するという情報を知り,私はたまに親しく話をしていた隣のクラスの友人が突然転校することを知ったような,小さな衝撃を受けた.
できれば閉店前にもう一回だけあのレーズンビスキュイが食べたい,と思った.甘すぎないけれども濃厚なバターのコク,レーズンのもちっとジューシーな食感,ビスキュイのしっとりさくさくとした食感が合わさったあの味は,近江屋洋菓子店のレーズンビスキュイでなければ味わえない.
しかし,最近の私ときたら学振の申請書書きに追われていて,正直洋菓子を買う心の余裕も時間の余裕もなかった.自分の研究の目的を誰が読んでもわかるように,魅力的かつ説得力のある文で書くという,研究者として当たり前の責務が,なかなか進められず,焦りを感じると同時に自分に自信をなくしていた.とりあえず洋菓子なんか買ってる場合ではない,と自分をたしなめ,近江屋洋菓子店に行きたい気持ちをそっと心の奥に閉じ込めた.
その日も,弥生キャンパスを通り過ぎ,本郷キャンパスへの道を進み,信号を渡ったら左に曲がって,研究室に着いたら,学振の申請書を書くんだ,今日こそ申請書を書き終えるのだと息巻いていた.
左に曲がるはずだった.はずだったのだが,気づけば私は近江屋洋菓子店に向かってまっすぐ歩いていた.
本郷通りの木々は古い葉が落ち,新緑が芽吹いていた.新緑のまぶしさについつられてしまったのもあるかもしれない.新緑の中を歩いているうちに,申請書の良い表現が浮かぶのではないかという期待もあった.
追い風もあって,私は本郷道りをぐんぐん歩いた.あっという間に近江屋洋菓子店に着いた.

近江屋洋菓子店は閉店を惜しみ駆け込む客でごった返していた.
いつものレーズンビスキュイは残念ながら予約で完売してしまったらしい.お昼に行ったにもかかわらず,フルーツポンチやその他のケーキも既に売り切れの様子だった.近江屋洋菓子店のファンも上には上がいて,私のような隣のクラスの友人レベルのファンでは入手不可能ということだ.
それでもかろうじてアップルパイを1つ入手することができた.私は忙しくてきりきりしている店員さんにフォークもつけるようお願いし,アップルパイを受け取ると,深々と「ありがとうございました」とお礼を言った.これまでの4回の訪問のお礼を込めて.
私は晴れやかな気持ちで小走りで研究室に向かった.今の気分ならブログも学振の申請書もすらすら書けそうだ.そんなことを思いながら自分の机に着くと,誰に隠すことでもないのにいそいそとケーキの箱を開けた.

きつね色に輝くアップルパイが1つ.ずっとガラスウインドウの外であこがれていたアップルパイがそこにはあった.お昼を食べたばかりにもかかわらず,アップルパイはできたてに限るという今でっち上げたばかりの信念をもって,いざ実食とフォークを取り出そうとした.
しかし,箱につけられていたのはフォークではなかった.先が丸いこれはフォークではない.スプーンだ….
スプーンでどうやってアップルパイを食べるのか.ものは試しに,と中のりんごをすくいはじめた.美味しい.
しかしスプーンではパイとりんごを同時に取り出せない!でもスプーンしかないし!
この後どうやってこの困難を乗り越えたのかは想像にお任せする.
以上があこがれの近江屋洋菓子店の思い出である.ちなみに近江屋洋菓子店の神田店はまだ残っているらしい.でもさらに買いに行くハードルは高くなったな…(遠い目)
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