変身
- 2019/08/20
- 21:05



寝る前に、次に目が覚めた時に、全くの別人になっていたりしないかな、ということをたまに考える。カフカの「変身」ではないけれど。
しかし翌朝起きれば、当然のごとく次の日の自分も「自分」であることに気づき、少々の落胆とともに、安堵のため息をつく。
人間というものは、早々に変われるものではない。
今期息抜きに観ている唯一のドラマ「凪のお暇」でもそんなセリフがあった気がするが、それでもなぜ、人間は変わりたいと思ってしまうのか。
先日、イタリアのフィレンツェで開催された自然言語処理のトップ国際会議ACLに参加し、発表してきたのだが、学会参加中もたまにそんなことを考えていた。
さすがに全くの別人にはなれないけれど、普段とは違う場所で全身で違う文化に触れ、普段とは少し違う自分でいられることが、国際会議の醍醐味ではないかと最近は思う。
普段とは少し違う自分になるコツは、あえて一人になることだ。海外で一人になるのはちょっと不安になるし孤独だが、学会会場内なら安心して一人になれる。
それにあえて一人になることで、英語を話すことに対する気恥ずかしさも軽減され、海外の研究者とも話しやすくなる。
一方で、国際会議では日本人研究者人脈もかなり広がるので、一人になる時間と知り合いといる時間のバランスが大事だ、とも思う。
ACLは、いろいろと面白い発表もあったし、留学でお世話になったJohan Bos先生や、Ido Dagan先生、Mirella Lapata先生をはじめ、国内外の研究者とたくさん議論できたし、とてもモチベーションが上がった。モチベーションが上がったし、面白い研究を続けたいと思う一方で、ソーシャルイベント中に感じたあの虚無感は何だったのか。
研究は面白い。勉強したいこと、しなければならないことがまだまだたくさんある。アウトプットしたい、しなければならないこともたくさんある。そうこうしているうちに時間があっという間に過ぎる。いろいろと時間が足りない。自然科学的な発見と社会技術的な応用を兼ね備えた研究をし続けたいという気持ちは、ただの欲張りなのか。それらは両立しうるのか。しかし、応用を実現させるための一番の近道は、最新技術からさらに精度を1%上げることではなく、やはり根本的に未解明なことを解明することにあるのではないだろうか。そんなことをぐるぐる考えた先は、虚無だった。
ソーシャルイベントでは花火が打ち上げられたが、日本の花火とは違って、タイミングも花火の形も無機質だった。
帰りの飛行機では、「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」という映画をなんとなく観てしまった。CMで邦題を聞いたときから気になっていた映画だが、英題は"A Banana? At This Time of Night?"で、まんまなんだけど、なんだかおかしくなってさらに興味が湧いたのだ。
大泉洋が24時間、常に誰かに介助してもらわなければ生きられない実在の障害者を演じているのだが、この物語の大きなテーマが「誰もが皆迷惑をかけなければ、生きられない」ということである。
そのときはそうねー、とぼんやり頭に残っただけだった。しかし数日後、偶然つけたテレビで瀬戸内寂聴が「人は生きているだけで誰かに迷惑をかけ続けている」とほぼ同じことを言っていたので、あれ、最近この言葉なんか流行ってるのかな、と思い始めた。
人は矛盾の塊でできている。他者の幸せを喜ぶと同時に羨み、他者の不幸を憐れむと同時に喜ぶ。そういう他者の羨みや憐れみに許されて自分も生きているのだから、他者のことも許し、お互い許し合って生きていこうじゃないか、という話らしい。
これまたそうねー、と思いつつ、何か違う、とも思う。この違和感は何なのか、と思い、おもむろに打ち始めた次第だった。ここで冒頭の話に戻るが、人間というものは早々に変われるものではない。そして他者と関わらずには生きていけないというのも確かで、他者と関わる中で、程度の差はあれど、必ず他者と衝突する部分がある。その中で、自己と他者との違いを互いに認識して生きていこうということだ。うん、こう書くと、そんなに違和感を感じない。なんとなく、「許す」という単語を使うと、上下関係の存在が前提になることに対して、違和感を感じたのかもしれない。
東大生ランキングに参加しています。いつも応援ありがとうございます!
