異常な思考
- 2020/03/31
- 20:06

突然だが、異常ということについて考えたい。異常とはもちろん、正常ではないということだが、そうすると、何かが異常であると判定するためには、どこからが正常で、どこからが正常ではないかを判定すればいいということになる。しかし、その判定が一筋縄ではいかないとき、ひとは本能的に物事を楽観的な方向から捉えようとして、異常を異常ではなく正常と誤認識する。いわゆる正常性バイアスという、認知バイアスの一つだ。
それがいま我々の前に立ちはだかる、新型コロナウイルスの根本的な問題であるように思う。新型コロナウイルスは、無症状でも他の人に感染させる恐れがあり、どこからが正常でどこからが正常ではないかが、検査しない限り(いや、検査しても、確率的にしか)わからない。そんなウイルスが全世界で蔓延しつつあるといういまの状況は、まさに異常な状況だ。にもかかわらず、それでもまだひとは、半ば希望的観測で、少なくとも自分の周りはきっと正常だと誤認識しようとする。これこそが異常な状況と等しく恐れるべき、異常な思考である。
そう、ひとは異常な状況に陥ると、本能的にこの異常な思考をし続けようとしてしまう。そのことをおのおので意識することが、この問題を解決するための突破口だと私は思う。いま我々はこれまでの常識がまったく通用しない、未曾有の状況に直面している。その中でこれまでと同じ思考が通用すると思い続けようとすること、それこそが異常な思考であり、あえて過激な言葉を使うならば、愚かな思考であるとまで述べたい。
例えば、いま季節は3月末。もうすぐ新学期である。しかし「4月から新学期である」という考えですら、大昔の人が決めた一つの思考に過ぎず、現在の状況においては愚かな思考であるといえよう。これまでに自分の中に蓄積されてきたありとあらゆる常識や固定観念は、いまの異常な状況においてはもはや、捨てたほうが良い。しかし、社会の中を生き、社会を作る「人」であるということまでは、捨ててはいけない。では、常識を捨てながらも「人」であり続けるということは、どういうことか。
それは、いま目の前にいる「人」をちゃんと見ることだ。目の前というのは、もちろん本当に目の前であるとは限らない。テレビでもネットでもいくらでも、目の前にいる「人」を見ることができる。とくに、自分とは関係ない人だ、と思ってしまうような「人」にこそ目を向け、徹底的に調べ抜こう。ググってもいいし、関連するツイートを追うのでもいいし、Wikipediaでも良い。ちなみにリアル知り合いでもない人を徹底的に調べる気力がどうしても出ないのならば、リアル知り合いでも良い。リアル知り合いがいなければオンライン知り合いでもいいし、それもいなければ家族でもいい。ただ、もしどうしても自分と関係がある人しか調べる気力が出ないのだとしたら、それは既に自分が「人」であることをだいぶ捨てつつあるということを意識したほうがいい。
調べていくうちに、もちろん得られた情報が嘘か本当かはわからない(それもできれば調べ続けるといい。思ったよりも真実にたどり着くことが難しいことに気づくはずだ)が、これまでは自分とは関係ないと思っていた多くの「人」が、全く関係がないわけでもないということに気づくはずだ。そこまで行けば「人」の境地にほぼたどり着きつつあるが、さらに、自分が自分ではなく、自分が調べた「人」になり代わったとしたらどう思うか、どう行動するかまでを考えることができれば、そのときはじめて本当の「人」になる。
つまり、常識に則ることは「人」であることの本質ではない。もちろん常識は常識で大事だが、この異常な状況においては、常識が通用しない。まったくの赤の他人のことを他人事ではなく自分事としてとらえ、関心を抱き、考え続けられることが「人」であることの本質だと思う。いま、世界は本当に異常な局面にあり、我々のあらゆる行動は制限されている。しかし、制限された中でありとあらゆる想像をできるだけ働かせて工夫して生き続けること、それこそが「人」であることの本質ではなかろうか。
…と長々と説教っぽいことを書いてしまい、うわーこれはいまいちだ、と思いつつも、誰かに少し聞いてもらいたいことでもあり、消す気分にもなれず。とはいえ、このブログの読者のみなさんはだいたいみんな良識があり、上に書いていることなんかもちろん認識していて書くまでもないのではとも思い、葛藤しているべりももですこんばんは。まあせっかくここまでいっき書きしたから載せちゃえ!
書こうと思ったきっかけは、ニュースを見ていてふと、無自覚とか無関心ってどうすることもできなくて怖いと思ったんです。自分が何かについて無自覚で無関心であったことが、バタフライ・エフェクトのように思わぬところで取り返しのつかない影響を及ぼしていたとしたら、それってどうしようもなく怖くないですか。自分も、一定の閾値以上にわからない、関心が湧かない話になると、無自覚に反応が雑になるということをたびたび指摘されるんですが(ぉ、閾値に至ってしまう前に、違和感を感じたところは、その違和感が何なのかわからなくても、すぐに「それって何?」と聞いて止めたほうがいい。何もわからない世の中だからこそ、無自覚には自覚的であれ。とはいえ、言うは易し、行うは難しなので、自戒も込めて、上のようなことを書いた次第です。みなさま、どうぞ健康第一でお過ごしください。
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